Blog
徒然なるままに

ここは私の雑記帖。
思いのままに、私の心身が感じてることを言語にしてみたいと思っている。

これまでに文字にしたものをいくつか読んでみた。
何年も前に書いたものなのに、今と感覚はかわっていない。
恐らく私の核(無意識も含めて)は、時間とともに変わるものでもないらしい。

私は、基本的にはあらゆることをイメージの塊で感じている。
誰でもそうかもしれないが、自分がキャッチしているものをそのまま全く違えず、言語でアウトプットすること(表現すること)はとても困難である。それが、概念の域を出ている類の場合は、言語化は不可能に近い。
だから私はピアノを弾くのだろうと思う。

だが、表現のツールとしてもっとも私に近いのは、果たしてピアノなのだろうか・・
この問いはいつもある。

ただ、私にもっとも優しく、身近で、長い付き合いの存在がピアノであることは間違いない。
ピアノさん。いつもありがとう。

ピアノと私

私の家にピアノが来たのは、3歳のとき。
そのときのことは、今でも映画のワンシーンの様に覚えている。
私は、ピアノが運ばれてくるのを、部屋の隅で膝をかかえてドキドキしながら見ていた。
ピアノの設置が終わると、おじさん(調律師かな?)が、
私を膝に乗せ、私の手の上に自分の手をかぶせ、いきなり「ちょうちょ」を弾いてくれた。それはまるで、自分がピアノを弾いてる感じで、魔法にかかった様だった。これが、私がはじめてピアノを触った瞬間。3歳の私には、ものすごい感動だった。 まさにマジック。

それから6歳までは、ピアノをおもちゃにしていた。すぐには習わしてはもらえなかったのだ。
当時はオルガン教室が流行っていたのだが、オルガンを弾くと、悪い指の癖がつく、と母がどこかで聞いてきたらしく、1年生になったらピアノを習いに行こうと言われてた。

そもそもピアノは6歳上の兄が習うので買ったのだった。
「男の子は長くは続かないだろうが、明美がいずれやるのなら、早く買ってしまおう」というのが両親の思惑。
3歳にして私はピアノをずっとやるということが決められていた。でもそれは3歳の私も望んでいたのだった。

私は3歳から毎日ピアノで遊んでいた。
TVの歌、幼稚園で習った歌、いろいろ、好きな曲を毎日適当に弾いてた。
すごく不思議だった(理解できなかった)のは、幼稚園の先生が歌の伴奏をすべてハ長調で弾くことだった。
所謂コードを全てCで弾くのだ。恐らく伴奏譜がなかったのだろう。私は何度か先生に「なぜ?」と聞こうと思ったのだけど、子供ながらに「もしかしたら先生はコードを変えるということがわからないのかもしれない。失礼なことを言っちゃいけない」と思い、言わなかった。でも、幼稚園で毎日歌いながら、とってもイヤな思いをしていた。「先生、そこ、ドミソじゃなくドファラって弾いて」と心で思っていた。

初めてアレンジしたのは4歳の頃。確か「ふるさと」だった思う。
兄が弾いているのを耳で覚えて、適当に弾く。これが日課。
兄が楽譜を教えてくれたが、ド以外は読めなかった。

「ふるさと」はハ長調で弾いていたのだが、ある時、偶然ファから弾き始めても弾けることを発見した。ソからも弾けた。
所謂移調である。ラからもミからも弾いてみた。興奮した。
楽譜が読めない分、そんな遊びの発見があった。

こんな毎日が三年間続き、待望の1年生になった。
母は良い先生を選んでくれた。声楽からピアノに転向した鎌田範政先生(後に鹿大教授)。
初めてのレッスンは生まれて初めての大イベント。だって、三年間も待ったのだもの。今でもその時の緊張ぶりを覚えている。
先生に渡された教則本を見た。ドがいっぱい書いてあった。「これなら私でも読める。すごい簡単!」楽譜が読めない私はどんな難しい本が渡されるかドキドキしてたから、拍子抜けしたのかもしれない。

家に帰って早速弾いてみた。出された宿題5曲は五分で弾けた。「なんだ、がっかり。私、もっと難しいの弾けるのに・・」

翌週のレッスンには自信満々で行った。
ところが、全部直された。つまり指の使い方、所謂ピアノテクニックが私に指導されたのだ。
「ピアノって、指の練習なんだなー」
自分が三年間待って、やっと習えたピアノ。それは、遊びで弾いてた私のピアノとは全く違う世界だった。

私の受けた音楽教育

三年待っただけあって、ピアノのレッスンは毎回、私にとってはイべントだった。
次は何を言われるのかしら・・・
私のピアノはどうなのかしら・・・
いつになったら、有名な曲を弾かせてもらえるのかしら・・・

私は父っ子だったので、いつも父がバスでレッスンに連れていってくれた。お父さんとバスに乗って遠くまで(1年生の私には遠く感じた)ピアノのレッスンに行くなんて人は、周りにいなかったから、それだけでも特別なことだった。

私が熱心な生徒だとわかったのか、先生は宿題の曲数を5曲から10曲に増やした。だから、本があっという間に終って、次の本へ進んだ。次の本へどんどん進む。これが何よりワクワクした。
ある日、先生は母に「1言うと10わかるお子さんです。音楽を表現する力もある。」と言って下さった。音楽が何もわからない母は先生の言葉が絶対だったので、すっかりその気になり(実は私も。単純な親子だなー。)ピアノの道に進むことを確信したのだった。

1年生の1学期が終る頃、先生は「音大に行くのなら、聴音、ソルフェージュ、楽典を習った方がいい。」と米丸先生のところに習いにいくように薦めて下さった。
最近になってわかったのだが、そこは、西勇恕先生(当時鹿大教授で後に私が師事した先生)が、米丸先生に「あなたの教えた子はどうしてあんなに聴音が得意なんだろう。あなたの好きなように音楽教育をやってみなさい。」と言って、音楽を専門的に勉強したい子どもを集めて開いた米丸先生の独自の音楽教室だったらしい。
実は私は、大人になってから、あの音楽教室はなんだったのだろう。かなり高度なことをやっていたし、今思うと、すごくできる子が来てたよなー。と思っていたのだった。
それが、一昨年、鹿児島でコンサートをして、何十年ぶりに米丸先生にお会いしたとき、初めてこの経緯を聞いたのだった。

ピアノのレッスンは日曜日。音楽教室は木曜日。1週間のうち2回もレッスンがある。ワクワクした。
「でも、どんなところなんだろう??」初めての木曜日。私はよくわからないまま、母に連れられて音楽教室に行った。ところが、そこは、私の期待を裏切って楽しくってたまらないところだった。

初めての音楽教室

初めての音楽教室の日。私はドキドキしながらバスに乗った。ピアノの先生の家より遠いところだったから、それだけでも子供にとってはイベントなのだ。

どんな子が来るのかなー・・
行ってみたら、ビックリ!
まず、教室中が楽器だった。ヤマハの教室なのだ。嬉しかった。そして、生徒は10数人いたのだけど1年生は2人で皆2・3年生だった。すっごく緊張した。誰とも話せなかった。

緊張のあまりか、どんなレッスンを受けたのか思い出せないのだが、とにかく刺激的ですごく満足したことは覚えてる。
レッスンの最後に先生が「これからも、このお教室を続けていきたい人、手をあげて!」と言った。私は迷わず、学校で習ってるとおり、右手をまっすぐに誰より早く挙げた。・・・と同時に、青ざめた。
シ〜〜〜ン。誰も挙げなかったのだ。
私は下を向いてすぐに手を引っ込めた。すごく恥ずかしいことをして、叱られたような気持ちがした。身体中がビリビリして逃げたくなった。

なぜ???!!なぜ、みんな、手挙げないの?
こんなに楽しいとこなのに、絶対続けたいって思わないの?!
と、恥ずかしさから憤りに変わってた。
でも・・すぐに考え直した。「こんなときは、きっと遠慮して手を挙げないのが常識なんだわ。私は1年生だから、知らないだけなんだわ。だって、続けたいと思ってる人はいるはずだもん。ヤッパリ私恥ずかしいことしちゃった・・」

あのとき先生はどんな気持ちがしてたのかなー。今思うと、私より先生の方がショックだったかもしれないなー。
一昨年、米丸先生にお会いしたとき
「明美ちゃんは、大きな目をいつもキラキラさせてる子だったよ。」と言って下さった。私は思わず言った。
「だって先生。私、あの教室楽しくってたまらなかったんですもの!」

母は全く音楽を学んだことのない人だった。音符ももちろん読めないし、曲のジャンルの区別もつかない。
だから、先生のおっしゃることは絶対であり、音楽の道に進ませようと思っている母にとっては、唯一の情報源だった。

先生から言われたことで、母が実行していたことは、
最低1時間(高学年になると2時間)、どんなことがあっても毎日練習させること。
なるだけピアノの演奏会に連れていくこと。
今考えると、とてもありがたいことだ。

「どんなことがあっても毎日練習する」
私は数年前、交通事故に会ってムチウチになるまで(2か月弾けなかった)このことにマインドコントロ−ルされていた。演奏家は皆そうだと思うが、1日弾かないと3日戻る。3日弾かないと1週間戻る。これが恐くて、無意識に弾かされる。でも、弾くことがご飯と同じように当たり前のことになって、努力する必要がないので、ある意味、楽とも言える。

母は私が何時間練習するかを毎日ノートにつけていた。
ただ、私がピアノを何時間弾いたかをチェックしているのであって、何の曲を弾いたかは関係なかった。というより、何の曲を弾いてるかは、わからなかったようだ。
このことは、私にものすごく幸いした。
私は、宿題の曲は少しだけ練習して、あとはいつも好きな曲(有名なクラシック曲や、マンガの主題歌、流行歌、他)を勝手に弾いてたのだ。
ある時、好きな曲だけ弾いて、宿題の曲を全然弾かずに、2時間たったので弾くのをやめたら「よく練習したね」と満足そうにノートに記録しながら母が言った。
私は、いくらなんでも今日は流行歌三昧だったからバレテルだろうと思ってたので、ビックリ!!
「おかあさんは本当にわからないんだ・・」
母の頭を深刻に心配してしまった。

こんな並外れた母がいたから、私は自由にピアノで遊んでいられたのだと思う。好都合でありがたい存在だった。

しかし、とても苦痛だったことは
ピアノの演奏会を聴きに行くことだった。
私の知らないなが〜い曲を、一言もしゃべらず、演奏家が延々弾き続けて終わる。私はいつも、聴く、という意識より、我慢して座っている、という意識だった。一方的に我慢して聴かせて頂くという感じだった。周りの人も何を楽しんでるのかわからなかった。

母はいつも隣で舟を漕いでいた。(笑)
最後の曲が終ると、拍手で目を覚まして一生懸命手をたたいた。
母は演奏家が登場したとき、ドレスについて感想を言い、演奏が始まると、いつしか寝てしまう。そしてアンコールで起きてすごく感動したように一生懸命拍手する。
演奏より、毎回の母のその様子の方がずっと心に残っている。

「どうして、ピアノの演奏ってこんなにつまらないんだろう・・」
たくさんの演奏会に連れていってもらった記憶はあるが、
誰のどんな演奏だったのか覚えていない。(ウィルヘルム・ケンプの演奏以外は)

ピアノは楽器の王様と言われる通り、大きいだけでなく、
1台でオーケストラと同じようなことができる器用な楽器だ。弦楽器や管楽器と違って、誰でも簡単にすぐに音が出せる。日本ではもっともポピュラーな楽器でもある。
でも、その分、ただ弾くだけでは人の心には届かない。
中途半端に上手に弾くと、ただ流れて、心を素通りしていってしまう。
そんな落とし穴がある楽器だと、子供の頃から思っていた。

私が始めてのコンサートをしたとき、この記憶は大きく影響した。
自分は何を聴いて下さる方に届けられるのだろう・・
届かない曲は1曲でも弾いちゃいけない。
弾きたい曲より、届けられるかどうかを自問自答する。
そんな毎日を繰り返し、プログラムを組み立てるのにものすごく苦悩した。

子供の頃は、ピアノで人を感動させるなんてありえないと思ってた。
ピアノより、ずっとずっと歌や芝居の方が好きだった。歌や芝居の方が人を感動させると思っていた。
でも、それは、たくさんの演奏は耳で「聞いて」いても心動かされるピアノを「聴く」チャンスがなかったからなのだろう。
そして、私自身がピアノという楽器に対して、「ひたすら練習をして難しい曲を弾けることがピアノを弾くこと」という固定観念をいつのまにかもってしまっていたのだろう。
今もピアノを習っている多くの子供たちが、不幸にもそう思ってるのかもしれない。